SEOとか無視して語るWebライターの悲喜こもごも

歴7年のフリーライター。

この記事は未完成です。時間のある時に少しずつ更新していきます。

人生の飛び石の間を言葉で表現する

30年以上生きてきて分かったことがある。それは、平凡な人生であっても、生きていれば過去の自分に励まされる瞬間があるということである。Webライターとしても、過去の自分が今の自分の言葉を生み出してくれる瞬間があるのだ。

過去の自分に励まされる瞬間は、ふとした時に訪れる。懐かしの音楽を耳にしてあの頃の幸せを思い出した瞬間や、十数年前にノートに書いた一言を目にした瞬間、鼻腔をくすぐる匂いが困難を乗り越えたあの日を想起させた瞬間などだ。

それは言い換えれば、今を一生懸命生きることは、未来の自分を支えるということである。誰かに非難され罵倒された今日も、誰かを羨んで嫉妬した今日も、自分の不甲斐なさに泣いた今日も、乗り越えることで未来の自分を鼓舞し支えるのだ。

人生はコツコツ積み上げても常に前に進めるわけではない。前に進んでいると思ったら斜め後ろに進んでいたり、予期せぬ出来事に歩幅が小さくなったり、大きな一歩を踏みすぎて転んだり。努力が報われない、頑張っていても病気になる、そんなことは当たり前だ。

それでも人は理不尽で不条理な世の中を歩いていかなくてはならない。そしてそんな人生の飛び石の間を言葉で表現するのが私の仕事だと思っている。

WebライターはTwitterでの収益報告を控えるべき?

洗面所に置いてある固形石鹸が、僅かながら、しかし確実に少しずつ減っていくように。私たちは常に死へと近づいている。

少し前にWebライターはTwitterで収益報告をすべきかどうかが話題になっていた。「Twitterで収益報告をするライターには仕事を任せない」と制作会社が公言したことで、それに対する媚びへつらいやら自己防衛やら反発やらが起きたようだ。

個人的な意見を述べると、Twitterで収益報告を「する」もしくは「しない」ことと、ライターとしての技量は関係がないのでは?と感じた。そもそも依頼主はライターのライティング力にお金を払うわけで、極端な話、マニュアルを守って求めるレベルの納品物を納めてくれれば、そのライターが意識高かろうが低かろうが、品行方正だろうが破天荒だろうが関係ないのである。本来は。

どうも日本の「お金を出す人」は、お金を出す相手に多くを求めすぎな気がする。原則、仕事とは労力に対して対価が払われる、そんなシンプルなものなのに、「自分の大切なお金を払うんだから、完璧に仕事をするのなんて当たり前で、さらに性格も良くて、謙虚で、『お客さんの笑顔があればどんな苦労も平気』と思え」との無言の圧力が凄まじい。

ただ、自戒の意味も込めて、収益報告をする派もしない派も、どちらが正しいという問題ではなく、なぜ自分は「する派(もしくは「しない派」)」なのか、その理由を言語化できるようにはしておきたい。別に全ての人を納得させる必要はないし、誰からも「いいね」がもらえなくても、それはそれである。

「Twitterで収益報告をするライター」と「Twitterで収益報告をするライターを避けたいお客」は相性が悪い、ただそれだけだ。Twitterで収益報告をしないライターのアカウントと、収益報告をするアカウントの併用…それもそれで便利かもしれない。

もう一度書く。洗面所に置いてある固形石鹸が、僅かながら、しかし確実に少しずつ減っていくように。私たちは常に死へと近づいている。

他人の意見など気にせずにTwitterくらい、書きたいことを書けばよいと思う。私は今は収益報告はしないが、したくなったらする。別にそれは「フォロワー様のため」ではなく、自分の満足のためだ。

もっと堂々と「悪い人」でいたい、ともしかしたらみんな心の奥で願っているのかもしれない。

面白い文章を書くことは文章にライトを当てること

「面白い」という言葉は、もともと「目の前が明るくなる」が語源だそうだ。目の前が明るくなるほど、魅力的で心躍る出来事…ということか。なかなか興味深い。そう考えると「面白い文章を書く」ということは、文章にライトを当てることに似ている。もちろんライトが当たったことでできた「影」の部分も「面白さ」に含まれる。

文章にライトを当てることは、そう容易いことではない。何十年も学び、書き、忘れたい過去を思い出し、人から貶され罵倒され、それでもライトは手に入らないかもしれない。

ただ、私が想像するに、きっとライトは「奇人」の方が手に入れやすいのだ。現実世界で「頭おかしい」人も、それが文章になれば立派な文学だ。学校や職場で発表できるような「全ての人から批判されない、当たり障りのないこと」では、きっとどこかでライトの電池が切れる。

もちろん作り話としてセンセーショナルな文章が書ける才能ある人もいるが「隠しているのに滲み出ている狂気」ほど面白いものはない。現実世界で奇人変人が身を隠すように生活しているのは、文学世界ではある種の韜晦に過ぎないのだ。

狂気がないと面白い文章が書けない…という具縛にとらわれそうになる人もいるかもしれない。しかしそれは違う。なぜならば人間は誰しも心の奥に狂気を持ち合わせているからだ。その狂気を文章に昇華するのが本当の「文章力」である。私もいつか書けるだろうか。読んだだけで鳥肌が立つような「面白い」文章が書けるだろうか。

Webライターのクラウドソーシングサービス低単価化について

貨幣が世界を支配する前、本来「仕事」とは「何かを成し遂げる行為」のことを指していた。それからお金が社会を牛耳るようになり「仕事=生計を立てる手段」となる。

日本ではしばらくの間、雇用主が従業員の労働力を搾取する悪しき慣例がまかり通っていた。会社に意見を言うことは「悪」と見なされ、自己犠牲は美徳とすらされていたのだ。

令和時代の今、そんな「働き方改革」として労力の搾取は少しずつ淘汰されようとしている。しかし、その流れには落とし穴があった。その落とし穴にはまってしまったのが「Webライター」だ。

日本のクラウドソーシングサービスでは、時給100円に満たない仕事が蔓延している。Webライターにおいては文字単価0.1円という案件は珍しくない。「1記事300円!月に5万円稼いでいるライター様もたくさんいます!」と書いてあれば「未経験だし、やらせてもらえるなら、やってみようかな…」と考える人もいるだろう。

しかし文字単価0.1円では3,000文字書いても300円にしかならない。3,000文字を書くには早くても2時間ほどかかる。さらにリサーチ・誤字脱字の確認・修正を含めて300円しかもらえないとなると、時給は100円以下になってしまうのだ。

Webライター業界における低単価案件の問題点は、案件が文字ベースでしか語られていないことだ。記事作成費を文字数で割った「文字単価」には、リサーチ・誤字脱字の確認・修正費用は含まれていない。

搾取しようとする発注者は、顔が見えないのをよいことに、自己の利益のために、受注者を利用している。さらに大きな問題は、それでもやりたいという人がたくさんいること。それでも「Webライター」の称号が欲しい人が年々増え続けていることだ。

低単価から抜け出す方法はただ一つ。ライターの文章力を搾取することしか考えていないクライアントとは仕事をしないこと。私は海外のクライアントから仕事をもらうことがあるが、常に単価を決めるのは私だ。契約前、私のスキルを一番よく知っているのは私だからだ。

そのスキルを買うか買わないかは、相手の問題。「私はこれができます」と堂々と言えることも、フリーランスのスキルの一つではないか。せっかく「会社」という縛りがない世界なのに、わざわざ労働力を搾り取られにいく必要はない。

100%とは言わないが、日本のWebライター業界は「雇用主がえらい」という日本的な構造に、かなり引っ張られていると思う。海外では受注者が提供するのは「労働力」だが、日本で受注者が提供するのは「(それを作るのに何時間かかったかなんて知ったこっちゃないけど、とりあえず求めるレベルの)成果物」なのだ。

低単価の仕事で集まるのは、低品質の記事。低品質の記事を生み出し続けると何が起こるか?答えは「Webライター」という言葉の価値がどんどん薄っぺらくなる。

こんな低品質の記事でWebライターなんて…と「Webライター」という言葉の重みがどんどんなくなってしまうのだ。しかしこれはライター側の問題ではなく、必要なものにお金をかけたがらない発注者の責任でもある。

しっかり文章を勉強した人もWebライター。スキマ時間でなんとなく作文した人もWebライター。問題は、労働力を搾取する発注者がその人のスキルを見るのではなく、その人が首からぶら下げている「値札」だけを見ていることだ。

Webライターのみなさん。

もう、やみくもに労働力を提供するのは止めましょう。

一緒に「私はその値段では書きません」と堂々と言えるようになろう。そのためには、その単価に見合う仕事をするための日々の訓練が必要。私も日々、勉強していく所存だ。

「Webライター」と聞いたら、文章のプロだと信じてもらえるよう、然るべきお金を払う対象だと認めてもらえるよう、一歩ずつ変えていきましょう。

那須正幹先生へ 名もなきファンより

最近の子は想像がつかないかもしれないけど、私が小学生の頃はネットなんてものはなくて、ましてやWikipediaなんてなかったんだよ。

だから最近バスの中で、ふと那須正幹先生のWikipediaを開いて誕生日を見た時、時空を超えて小学生の頃の自分にハイタッチしたくなった。

なんと那須正幹先生と自分の誕生日が同じだったからだ。

那須先生の『ズッコケ三人組シリーズ』は、私を年間300冊以上の本を読む「本の虫」にしてくれた、偉大なる児童書だ。当時小学生だった私は50冊もあるシリーズ本を何回も何回も繰り返し読んだ。いつも前のページについている3人のプロフィール情報を「プロフィール帳」(懐かしい)に書き写したり、表紙の絵を真似して描いたりしては、空想の世界にズッコケ三人組を招待して遊んでいた。

驚くべきことに、当時本には作者である那須先生の住所が載っていて、ファンレターを送れた。さらに驚くべきことに、那須先生は毎回、手書きで、私が書いた事に対して丁寧に返事を書いてくれのだ。

毎日ポストを覗いて、ズッコケ三人組の絵が描いてある葉書を見つけると、ちっちゃな胸がめいっぱい弾んで、あっちこっちに転がったものだ。

そんな、那須先生が誕生した47年後、6月6日に生まれた当時の小学生は、胃もたれを3日くらい引きずる30代になり、物を書くライターとして暮らしている。

今わたしが文章を書いているのは、間違いなく那須先生のおかげだと思う。読書しなくても生きていけるのは間違いないが、なぜそれでも読書をするのか言葉にする力は、ハチベエ、ハカセ、モーちゃんが養ってくれたのかもしれない。

ズッコケ三人組との邂逅が今の私を作ってくれた。失敗も後悔も挫折も含め、本当に人生とは見えざる力に導かれて、完璧にできているのだと実感している。

今日、25年ぶりにズッコケ三人組シリーズを購入した。那須先生の偉大なる才能にまた触れられると思うと、30代のちょっと老化した心が弾む思いである。

Webライターとして初めての取材

初めての本格的な取材は2018年の初夏。薫風に新緑がきらめく心地良い季節だった。所属していた制作会社から依頼を受けて現地へ向かう。カメラマン、モデル、ディレクター、依頼元の会社のメンバーが現地に集合した。それぞれ名刺交換をしていざ取材開始。私はインタビューを担当した。

インタビューに関しては緊張してほとんど覚えていない。ソツなくこなしたことは確かだが、歴史に残るような素晴らしいインタビューでなかったことも確かだ。覚えているのは現地解散した後に立ち寄った河原。そのまま帰る気分になれず、誰もいない河原に座り込んで、犬の散歩をする老人をいつまでも眺めていた。

その制作会社とはその後も何度か仕事をして、取材もたくさん担当させてもらった。会社が潰れたことで取引はストップしたが、初めての取材の機会を与えてくれたことには大変感謝している。1文字0.1円から始めたWebライターが、モデルやカメラマン付きの本格取材ライターとして記事を担当できたのだ。

そういえば、河原で犬の散歩をしていた老人は今日も犬を散歩させているだろうか。

Twitter向いてない

Twitterが苦手な理由8つ!向いてないし絡むのも苦手。ノリが嫌いなのはあなただけじゃない?

2022年8月30日

年齢を重ねれば素晴らしい文章が書けるのか?

もし「素晴らしい文章」を「人生の機微に通じ、人の心を動かす文章」と定義すると、やはり年齢は関係ある気がする。私自身、やはり実体験として若い頃は感じることがなかった複雑な感情を背負って生きている実感があるからだ。年齢を重ねれば重ねるほど文章力が上がり表現力が増すという意味もあるだろう。人が言葉にできない感情の上澄みを上手にすくって、繊細な筆致でしっとり語れたら素敵である。

ただし、もし「素晴らしい文章」を「芸術のように一瞬で人の心を掴む文章」と定義すると、むしろ荒削りな若者の方が向いているかもしれない。「人の心を掴む」というのは、「掴まれて嫌いだと思う」も「掴まれて好きだと思う」も同じである。年を取ると良くも悪くもソツなくこなそうとするため、読み手との荒々しい心理的衝突は起きづらいだろう。

一般的にWebライターの仕事は「物事を文章で分かりやすく伝える」ことだとされているが、私はその先を目指したい。今までの人生を総動員し、人ではなく自分を納得させ説得できる「素晴らしい」文章を書きたいと毎日思っている。今のところ、年齢は関係ある、と自分に言い聞かせて、日々精進していく所存である。

初めての記事は奥から2番目のトイレで執筆した

ドアが開くたびにドキッとした。従業員休憩用フロアの一番目立たない場所にあるトイレ。一番奥ではなく敢えて奥から2番目のトイレを選んで、便座に座って記事を書いていた。ほとんど人が来ないトイレだったが、ときどき誰かがやって来る。別にコソコソ隠れて書かなくても良いのだが、心も身体も会社に服従していた私は、休憩時間に仕事のあれこれを語る輪に加わっていないだけでも罪悪感を感じていたのだ。

文章はスマホの「メモ」に書いた。2,000文字180円。Webライター未経験だったのでこれが安いのか妥当なのかも分からない。休憩時間があと13分で終わる。5分前には戻りたいのであと2〜3分。また人が入ってくる。数人のようだ。意味もなくわざと音を立ててトイレットペーパーを巻き取る。あと1分。人も入ってきたし、もう出てしまおうか。今度は音が出ないようにトイレットペーパーを巻き取る。静かに鼻をかむ。

やはり、もう一度スマホを開いてあと2行書いた。「残り30秒」に「2行」が溶け込んでいく。文章で時を刻むといえば格好よいが、ここは奥から2番目のトイレ。スマホをポケットに閉まって外に出る。「お疲れさまで〜す」と感じ良く言えた自分を心の中で褒めた。

一度受けた仕事を断るのにかかった時間は3日と17時間

1巻、7巻、13巻。図書館の椅子に腰掛けてパラパラと本を捲る。数十年前に出版されたこの漫画は劇画タッチで描かれていた。とある漫画のあらすじ記事を依頼されたのは昨日。4,000文字で1,200円とのこと。漫画のタイトルを検索してみると、有名ではないもののコアのファンを抱える知る人ぞ知る名作のようだ。

仕事を受けたときは、ネットであらすじを調べて書けばよいと思った。しかし、思いのほか情報が少なく記事が書けない。調べると近くの図書館に置いてあるそうなので足を運んだのだ。1巻、7巻、13巻しかないが、なんとか書いて提出する。すると、すぐにこんなメッセージが届いた。「全ての巻のあらすじを全て細かく書いてください」。

このメッセージを目にして私の心は鉛のように重くなった。超初心者Webライターがやっともらえた仕事である。今後のためにも何がなんでもやり遂げたい。しかし結局、3日と17時間悩んで仕事を断った。何を言われるか想像すると食事も喉を通らず、Googleの検索履歴には「Webライター 仕事 断る」「Webライター 無責任」などといったワードがズラリと並んでいた。つまり私は悩むことに疲れたのだ。

「承知いたしました。では、こちらをお願いします」ーーこれが仕事を断ったメールの返信だ。想像以上に呆気なく、心の底から安心し、そして同時に、自分の案件は代替可能なのだという現実を突きつけられた気がした。

私はもう5年ライターをしているが、引き受けた仕事を断ったのはこの1回だけだ。あれからもう4年以上経った。今なら全ての漫画を購入して記事を書いただろう。その何倍もの金を稼ぐ自信があるからだ。4年前の自分、おつかれ。そしてあの時仕事を断った編集部の方々。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。

「一生懸命やっていない自分格好良い」と思える人だけができること

2017年の真夏。若干の修羅場を目撃してしまった。とある案件のグループチャットで。どうやら、あるWebライターが記事内容を検証するため、遠方のお店にわざわざ足を運んだらしい。事実確認をし写真まで撮って記事内容に盛り込んだそう。

それをグループチャットでWebライターがディレクターに報告したところ、ディレクターから送られてきたのは、こんな返事だった。「わざわざ遠くに行っていただき感謝です!自分はクーラーの効いた涼しい部屋でゴロゴロしてたのに、猛暑のなか行っていただくなんてWebライターさんは大変ですね!」

自分はクーラーの効いた涼しい部屋でゴロゴロしてた、なんて知ったこっちゃないが、清々しいほど自己陶酔やマウントなど含蓄ある返事だ。さらに清々しかったのは、Webライターがその返事を無視したこと。ちなみに興味本位でそのディレクターのTwitterを覗いてみたら「ライターさんを褒めて伸ばすのが自分のモットー。知識をどんどん吸収して成長してくれる優秀なライターさんに囲まれて、自分は超幸せ!」みたいなことをつぶやいていた。何だか大変そうだ。

夏の太陽が汗に溶け込んで、こめかみから首筋に流れた。

ライター生活7周年、Entarキーに込められた情熱

2023年12月。ライター業も8年目を迎えた。なんとかライターとして生きている。毎日何千文字もキーボードを打っているせいか、心なしか指に筋肉がついて太くなった。(気がするが、指に筋肉はつかないらしい)

頭の中に何百ものファストフードみたいな文章テンプレートがあって、それを日々出力することで生計を立てている。決して自分の主張が支持されている物書きではなく、依頼主の言いたいことを、適切にまとめて文章化するーー私は劣化版ChatGPTのようなものだ。

相棒のパソコンは3台目だ。執筆していると数秒に1回は押しているEnterキーがどんどん劣化してきてきた。書籍を発売したり、著名人に取材したり、大勢を集めるセミナー講師として登壇したり、そんな素晴らしい方々を横目に見ながら、私は今日も文章とお金を交換する作業に勤しんでいる。

今年は文章の鍛錬がほとんどできなかった。お金を稼ぐという現実的な問題に追われ続けていたからだ。書きたいことを書いてもお金にならないジレンマや、お金のために書く文章への罪悪感は、毎日少しずつ劣化していくEnterキーに滲んでいく。

しかし、それでも、不安と手をつなぎながら歩くこの道も悪くはないと感じている。私にとって書くことは生きることそのものだからだ。

たとえ苦労してつかみ取った現在地が「こんなもん」だとしても、それはそれで納得できる。7年は決して短くないかもしれないけれど、私にとってはまだまだスタートライン同然だからだ。

2024年は文章力の修行に集中していきたい。筋肉質になった(気がする)右手の小指で、誇らしげにEnterキーを押せるように。