カミュ『異邦人』太陽の眩しさが主人公ムルソーの心の闇をより一層引き立てる

森博嗣先生の『数奇にして模型』にこんな一節がある。

「世の中に、コモンセンスと呼ばれる幻覚が、どれほどあるのだろう?空気のように、それはどこにでもある。けれど、ここと同じ空気は、実は世界のどこにもない。それを知っている人間と、知らない人間がいて、不思議にも同じ社会に生きている。」
(『数奇にして模型』より引用)

倫理の線引きをすることは、人類の平和を守ることである。人を殺してはいけない、人には親切にしなければいけない。当たり前のことを当たり前に守ることは、もはや人類の暗黙の了解となっている。

しかし、太陽のせいで人を殺し、裁判の間はアイスクリーム売りのラッパの音を聞いているような、倫理の一貫性が失われた男がいたらどうだろうか。今回はカミュ先生の『異邦人』を読んだ読書記である。

カミュ『異邦人』あらすじ

養老院で暮らしていた主人公ムルソーのママンが死んだ。その次の日にムルソーは海水浴に行き、マリィと出会い関係を結ぶ。ムルソーは、ママンの死を悲しむこともなく、黙々と仕事をしてマリィと波の間に転げ回った。

ある日、マリィと一緒に訪れた友人の別荘でムルソーはアラビア人を殺す。理由は「太陽が眩しかったから」。

ムルソーの裁判で、弁護士は最善を尽くすも、ムルソーはいつも上の空で「暑い」「眠い」「マリィは髪を結ばないで散らしている方が美しい」など全く関係のないことを考えている。

マリィや友人が見守る中でムルソーに言い渡された判決は死刑。それでもムルソーはこう言う。「私はもう何も考えてはいなかった」。世の中にふらふらと流されるように生きるムルソー。最後に世の中の「不条理」は彼を死に追い込むのだった。

カミュ『異邦人』の主人ムルソーにはモデルがいた

実は主人公ムルソーにはモデルがいた。その事実はカミュ『異邦人』の解説の部分に綴られている。

「1944年の大晦日の夜、ジードの所有するアパルトマンに住んでいたカミュは、大勢の人を招いてパーティーを催したボーヴォワールはサルトルとともに参加したが、パーティーの間、ずっと沈黙を守っていたひとりの男を指してカミュが『あれがムルソーのモデルなんだ』と言った。」
(カミュ『異邦人 解説』168ページより引用)

『異邦人』の中でムルソーの「異常性」の象徴として描かれていることとしては、ママンを養老院に入れたこと、ママンの死を悲しんでいないこと、太陽を理由にアラビア人を殺したこと、殺人に対して全く反省していないこと、死刑が決まっても幸福を感じていること、が挙げられる。

しかしこの「異常性」はあくまでも世の中の倫理観から判断したもので、ムルソーの中ではいたって普通のこと。親が死んだら悲しまなくてはいけない、死刑が決まったら自分の罪を悔いなければいけない。

倫理観という名のカッターでムルソーの行いを切り取れば、最後には「異常なサイコパス」という姿が残る。切り取られたサイコパスは、ガヤガヤとした非義に対する非難にあおられてフワフワと斬首刑へと飛ばされていくのだ。

『異邦人』のキーワードは「太陽」なのではないかと、私は考えている。この作品には何度も太陽に関する記述が登場するが、その照りつける太陽とムルソーの心の薄暗さのコントラストこそ『異邦人』の奥深さなのではないか。

「陽の光で、頬が焼けるようだった。眉毛に汗の滴がたまるのを感じた。それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。あのときのように、特に額に痛みを感じ、ありとあらゆる血管が、皮膚のしたで、一どきに脈打っていた。焼けつくような光りに耐えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、一歩体をうつしたところで、太陽からのがれられないことも、わかったいた」
(『異邦人』77ページより引用)

そしてムルソーはアラビア人を殺す。殺してから汗と太陽を拭う。照りつける太陽が降り注げば注ぐほど、ムルソーの心の闇が浮かび上がるように感じた。

カミュ『異邦人』を「意外と普通」と感じてしまった私もまた異邦人なのかもしれない

カミュ先生の『異邦人』は、頭のおかしい一人の男を描くことで世の不条理や人間の倫理観を問う作品としてしばしば紹介される。私も作品を読む前は、主人公はよほど頭がおかしく、信じられない奇行を繰り返すのだと思っていた。しかし実際に読んでみると、主人公ムルソーは普通だと感じた。

もちろん殺人を犯すことは罪に問われることだが、私の幸せな日常の後ろ側では、今日も世界で誰かが死んでいる。あえて見ないように目を背ける行為と、太陽を理由に人を殺したムルソーの行為は、本質的には同じなのではないだろうか。

そんな私は誰かにとっての異邦人であり、あなたもまた、誰かにとっての異邦人なのだ。しかし、宇宙の歴史からしたら、ちょっとくらい「異邦人」がいることなど些事なのではないか。宇宙目線で考えるところが、私が異邦人である証拠だろうか…